俳優座プロデュース公演NO.79『空の定義』 in 俳優座劇場(12/12)

作   青木豪
演出 黒岩亮

ちょっと寂れた感じの町にある、懐かしい画廊喫茶「オリベコーヒー」
マスターの織部正勝さん(名取幸政さん)が一人切り盛りしておられます。
そこへ娘婿の宏一さん(浅野雅博さん)がやってきます。
宏一さんと妻・暁子さん(松永玲子さん)は、共働きのお医者さま。
ところが暁子さんの妊娠がわかり、嬉しくもこれからの生活の事のを考えての行き違いが
あって、つい喧嘩に。けれど暁子さんの心中には
幼い暁子さんを置いて何処かに行ってしまった母への気持ちがくすぶっています。
そんな時、暁子さんの父である織部さんに結婚の噂が・・

青木豪さんといえば、アトリエ公演の『エスペラント』を思い出します。
高校生の修学旅行先での一こまのお話でしたが、あの9・11の出来事が
台詞の中に入っていたり、世情を含んだ世界を垣間見せて頂いた気がしました。

今回のお話も、ちょっとしなびた良き時代の落ち着いた画廊喫茶を舞台に
気が付くと、学生運動から革命の話に・・この小さな喫茶店の空間から
大きな出来事に発展してしまいそうで、思わず握った手に力が入ってしまいました。
短い上演時間の中に凝縮した深いドラマが、軽い会話に中から渦巻いて出てくる。
そんな温度が急上昇する凄さがありました。

自分にとって革命の話は、当時はあまりにも幼くて
そおいえば、両親に買い物に連れて行ってもらった横浜駅のと、ある書店に
大きな半紙に書かれた文字が何枚も天井から吊り下がられていた記憶があります。
文字も読めない頃でしたが、あれはきっと書店の店員さんたちの叫びと革命運動
だったのかなぁと、ふと思い出しました。

自分を置いて革命に生きた母を恨みながらも、医者として免疫学の勉強の為
海外留学したい気持ちを押える事が出来ない自分と母の姿を重ねて愕然とする暁子さん
に対して、今回は感情を抑えて、一歩引いた姿勢で家族を見守ろうとする宏一さんを
演じられた浅野さん。いやぁ、いい男じゃありませんか(*^_^*)

12/11(木)~12/21(日) in 俳優座劇場
# by berurinrin | 2008-12-21 14:17 | 観劇感想

世界文明センター『芝居の役割 演出者の役割』 in
東工大・大岡山キャンパス 西9号館2Fディジタル多目的ホール(12/16)

講師 鵜山仁

さて、抽象的なお話になってしまうと・・と、前置きをされた上で
現場=お稽古場で・・と、いうと
「飽きた」とか「面白くない」とか、「見てて何か足りない、つまんない」と思った時に
初めてダメ出しというか、広い(笑)主観的な印象を担保にして
演出って言う仕事のばねにしているわけです(笑)
稽古を見ていて「飽きた」とか「眠くなってきた」と思ったら
少なくとも何とかしなきゃいけないと思って、何とかするのが演出の仕事で
その時に何とかしようと、稽古をストップして、稽古場のこっち側の演出席から
橋を渡るみたいに向こう側の世界へ・・。
本当に言いたいのは「面白くない、なんとかしてくれ」これだけ(笑)
だけど本当に「面白くないから何とかしてくれ」って言うと怒られそうだし・・
色々言葉を費やして説明するそうですが、それによって失敗するケースもままあるそうで・・
逆に「面白くない、なんとかしてくれ」と言ってるほうが良い時もあるそうです。
但し、そういう場合でも大事なのは
演出者としての自分と役者とのキャッチボール。
で、ここで変化が起きて欲しい
言ったことが、そのまま役者に通じてしまうほど、つまらない事はないとおっしゃいます。
そんな事だったら、わざわざ(演出家が)稽古場に居なくても良いのではないか?!
ダメ出しの時に、演出者からのメッセージに対する役者からの
誤読や勘違いとか、演出者の回答を越えてくるような答えや音を常に聞きたいと
おっしゃいます。
そんな、稽古場での音探しを一ヶ月~二ヶ月程やって
今度は劇場に入って、舞台稽古が開始されます。
そこで初めて本格的な舞台装置、照明、衣装と出会って
そこでも新たな音に挑発されて、拡大されより広範囲な説得力をもって
観客と相まみえる
・・・そして、私たち観客がまた違う音を、観客席から発して
舞台から発する音と絡み合ってまた変化していくのでしょうね。

錬金術・・インチキな仕事をしているみたい(笑)いずれにしろ
そおいう感覚で仕事しています。とおっしゃる鵜山さんです。

あと、ひとつ大事な芝居の方法論で「見立て」という言葉があるそうで
「見立て」といのは、実際にはないもの、実在しないものを
あるかのように表す手法、表現方法だそうで、落語にも『お見立て』というのがありますね。
芝居の醍醐味の一つであるのではないか
「あそこに月が・・」と指を差したら、まるで月があるかのような感じになったり
居ない人に向って手まねきをしたら、そこに人が居るかのような錯覚が起こります。
と、今お稽古真っ盛りの『兄おとうと』のお稽古風景を例にとって説明して下さいました。
『兄おとうと』は再演になるので、ご覧になった方も沢山いらっしゃると思いますが
当時流行りものの「説教強盗」が、現れる1シーン。
「説教強盗」が、出刃包丁を持って登場するそうですが、歌に突入するシーンで
出刃包丁が、振り子のようにメトロノームになって指揮棒に変化できないかと
一生懸命、振付の方と所作指導の方と子供のように頭を抱えてるそうで・・
目に見えないものが見えてくるプロセスの過程を例にとって教えて下さいました。
『兄おとうと』・・実際拝見する時、ぜひチェックしたいですね★
ちなみに、こまつ座『兄おとうと』来年夏7/31~8/16(紀伊國屋サザンシター)です。

でも一番大切な事は、客席との共犯関係というか、客席とのキャッチボールが
出来ないと、これらは成立しないとおっしゃいます。
成立して、ベースにして、創造力の中で、ちょっと大げさですが
まだ見ぬ人生が立ち上がっていく・・それが目的だとおっしゃいます。

かつて生きていた人たちの楽しかった事、悲しかった事、足跡記憶のアーガイブ
をどうやって今に伝えていくか・・幻想を解釈する事によって
かつてあった死者の記憶、魂を蘇えらせる・・・400年前の作品が今に繋がるという
事が演劇というかアートというか、たぶらかしの術(笑)なんじゃないかなぁと

演劇は、お金はあまり掛からないけれど、非常に試行錯誤を重ねるし
非効率的だし、外に出て行かなきゃならないので、俳優も我々もお客さんも
かなり手間と時間が掛かるし、かなり非経済的なジャンルなんですが
それでも現実から“ウサギ穴”通いを続けていると締めくくられた鵜山さんなのでした。

ちょっとマイクの調子が悪かったり、鵜山さんが風邪気味ということで
喉がつらそうだなぁ・・と、ドキドキしながらの拝見でしたが
沢山の言葉を使って、どれもこれも貴重でキラキラと素敵なお話の数々でした。
メモを取っていたら20ページにもなってしまいました(笑)
いつも単語を書き出して、後からその間に言葉を繋げていくのですが
鵜山さんの言葉は、噛み応えがあるというか、咀嚼して文章にまとめていくと
私の心にどんどんストンと落ちていきます。理解できたかどうかは別ですが・・・(><)
でも、それはきっと鵜山さんがおっしゃる言葉や今までの論評、言動に
ブレがないから・・だからなんだと思います。
今年、色んな問題が起きて鵜山さんご自身も大変だったと思いますが
語弊があるかもしれませんが、私はあまり気にしていませんでした。
逆に周りの人たちのあたふたしている様子が、なんだかなぁ・・と(苦笑)
わたしは、以前「また、なにかめずらしいもの作りたいです」そうおしゃった鵜山さん
に魅了されながら、これかも鵜山さんの掘った「ウサギ穴」に落っこちて
現実とは違う世界を体感していきたいなぁと・・うふふっ

12/16(火) in 東京工業大学 大岡山キャンパス西9号2Fディジタル多目的ホール
# by berurinrin | 2008-12-20 22:27 | イベント

世界文明センター『芝居の役割 演出者の役割』 in
東工大・大岡山キャンパス 西9号館2Fディジタル多目的ホール(12/16)

講師 鵜山仁
  
あ~やっぱ『父と暮せば』は、文句なしに素晴らしい作品です。
すまけいさんと梅沢昌代さんのコンビも、本当に素敵です。
映像を観ながら、お芝居にどんどん引き込まれて
最後は涙涙・・で・・ちょっと恥かしいっす。

さて、鵜山さんは「演出の役割」について話をされました。

芝居の世界には、裏方という言葉があって
大道具、小道具、照明、音響効果、舞台美術、制作スタッフ、衣装
劇作家、プロデューサーなど、その中に演出家も入るんだと思いますが
いずれも自分は表舞台に立とうとしない。と、いうか立てない人のことで
その中で演出の役割を選んだという、ご自分の事を実感として
要するに、演出者っていうのは
役者にも作家にも舞台美術家にもなれなかった人じゃないかなって
鵜山さんらしいユニークな表現で話をされていきます。
チェーホフの『かもめ』で、鵜山さんがお好きとおっしゃるソーリという役名を
例えに出されて、ソーリという方は自分の事を「なりたかった男」って表現されているそうで
ソーリという人も文学者にも、弁舌爽やかな人にも都会人にもなれずに
田舎で余生を送っているそうです。
鵜山さんご自身も「なりたかった男」だと思うとおっしゃり
18歳で上京してきて、役者になりたくて、それしか考えてなかったそうで
役者の勉強をしてきて、研究公演とかで、舞台に立った鵜山さんに対して
同級生は浮かない顔をされるし、先生も「辞めたほうがいいんじゃないか」って
忠告をされる始末で、2年間在籍した専門学校を卒業して
文学座を受験された時は、演技部は競争率が高かったので
泣く泣く演出部に願書を出して、今に至るというお話。
ちょうど、その時の同期の方がいらしてて「こまっちゃうんだけど(笑)」と
今更ながらも、役者としての鵜山さんもちょっと観てみたかった気も・・
でも、東宝ミュージカル『シカゴ』で役者デビューもされてますよね。
偶然、扮装写真を見せて頂いたことがあって、口があんぐり(笑)
いやいや、ビジュアル系なお姿で・・美しかったです(*^_^*)

そんな事があったから、今でも作家とか音楽家とか舞台美術家とか
とりわけ役者には、すごく恨みというか憧れというのがあるそうで
上手いとか下手とかそういう問題じゃなくて、そもそもアーティストとして
演出者とそれぞれの専門家とは格が違うんじゃないかと謙った意識が正直あると
おっしゃる鵜山さんに、意外な感じがしちゃいます。
凡人な私にとって、鵜山さんは手を伸ばしても届かない雲の上にいるようなお方ですから・・

さて、そんな立場で何をやってるか?!と演出のお仕事を具体的に
お話してくださいました。
例えば「オハヨウゴザイマス」という言葉に対して
どういう「音」で言うのか?!と、いうのが演技というもので
ホワイトボードに書きながら説明をして下さいます。
どういう「音」といっても、耳に聞こえる音程とかボリュームだけでなく
「音」っていうのは、喜怒哀楽とか恐れとか怯えとか色々な複雑な感情の入った
息づかいといってもいいんじゃないかなと、おっしゃいます。
声だけじゃなくて、体全体の表情を集約した表情だと思っています。

鵜山さんはお稽古場で俳優達に対して良く使う言葉が
「音が違う」とか「音が変わらない」とか「もっと違う音がでないかな」
とか使われるそうです。
それは「オハヨウゴザイマス」という言葉が、いろんなケースで表情が変わる。
そう・・音が変わるということで
「オハヨウゴザイマス」の回りに人が居ると、また微妙に音が異なる
例えば、相手によって異なる音。
先生に「オハヨウゴザイマス」というのと、生徒に「オハヨウゴザイマス」
というニュアンスの違い。
そして「オハヨウゴザイマス」という言葉の前後の音も大切だとおっしゃいます。
前の音は
例えば、あの人に会いたくないなあ・・と、思いながら会ってしまった時の
「オハヨウゴザイマス」と
逆に、あの人に会いたいなあ♪と、思った時に会えた時の「オハヨウゴザイマス」の違い。
後の音は「オハヨウゴザイマス」と言い終った後に、相手が受け入れくれた場合と
靴を投げられた場合(某大統領の挨拶を例えに(笑))では、違ってくる。
相手に投げかける音、音の前後の3つの音の表情の違いから
いろんなシチェーションを例えに出して細かく説明して下さいました。
細かく作り上げていく・・作業。
普通、何にも考えずに使っている言葉ですが、いわれてみれば
挨拶一つにしても色んな感情が入ってるんだなあ・・と、頷くばかりです。

キャラクターやその人の抱えてる人生、歴史によってリアクションが変わってくる
その変化を多様に取っていきたい、その全体のうねりを
よりダイナミックに捉えていきたいという考え方をしている。と、おっしゃいます。
そうすると、とても複雑な操作になるそうですが
実際のリアクションは意外と単純で「プラス」「マイナス」「プラスマイナス」だそうで
靴を投げられた某大統領は、プラス(笑)危害を加えられるとう事ではなくって
積極的にコミニュケーションをとるという態度がプラスなんだそうです。
逆に、後ろを向いちゃうとか、去るというのがマイナス。
また、どちらでもなくて何か待ってるとかの姿勢がプラスマイナス。
リアクションは、単純に云うとおおむね、この3つに分かれるそうですが
それを芝居に持っていく時に、3つの内のどれを探り出すかが
なかなかやっかいなもんだそうです。
そうやってコミュニケーションによる変化をかもしていく目的は、
一瞬後と今とでは、極端に言えば人生観が変っちゃうほどのコントラスト、メリハリ
ドラマを呼び寄せる変化=チェンジ。そしてチェンジがチェンジをまた呼んでいく・・
そうやってキャッチボールを繰り返すことによって、
ものを感じる、感じ方が豊かになっていくことを目指していかれる・・と。
ただ変化、変化といっても、それは色んな考え方がありますが
台本とか脚本というガイドブックトというか、ルールブックに則した形の変化になりますが
その範囲のなかで、また逆にハードルにして、できるだけ最大限の変化、ドラマ、葛藤
を引き出していくそうです。
色んな関連性の中で、一人一人の演技者が、ひとまず発した「音」に対して
新たな可能性に向けて更新し続けるっていうのが、演出者の役割じゃないかな・・と
おっしゃいます。

では、お稽古場での鵜山さんは、どういう形で何と出会っているのかなぁ

12/16(火) in 東京工業大学 大岡山キャンパス西9号2Fディジタル多目的ホール
# by berurinrin | 2008-12-19 21:35 | イベント

世界文明センター『芝居の役割 演出者の役割』 in
東工大・大岡山キャンパス 西9号館2Fディジタル多目的ホール(12/16)

講師 鵜山仁

鵜山さんの追っかけとしては、やっぱ行っとかないとねっと、いうことで
東京工業大学の構内にある世界文化センター主催の
鵜山仁さんの講義に参加してきました。

初めての場所は、どーしても迷う・・・今回は、時間もギリギリだし
迷わないように、地図をちゃんとコピーして手元に持って
初めての大岡山駅に降り立ち、目的の場所に向ってかつかつ歩いて行ったのは
いいのですが・・・道は暗いし、人がいない?!
がーん、やばいかも・・・
と、思った目の前の建物から、鵜山さん始め数人の方々が現れまして・・
恥ずかしいけどラッキー!!と、わーいわーいと浮かれながら、鵜山さんご一行の後ろを
怪しげにちょろちょろと、くっ付いて会場まで無事辿り着きました。

最初に世界文化センター、センター長のロジャー・パルバースさんから
ご挨拶がありました。
このシリーズは3年目で映画監督は来られた事があるそうですが、
舞台演出家の方は初めてとの事、ロジャーさんご自身も演出をされる方らしく、
嬉しそうに鵜山さんを紹介して下さいました。

第一声は「えーと、鵜山仁といいます。よろしくお願いします。」
と、壇上に上がって片手にマイクを持って講義が始まりました。
舞台演出を生業としている鵜山さんが、なんでこんな事態(笑)人間になっちゃた?!と
順を追って演劇史的史筋からお話をして下さいました。

鵜山さんの高校生時代は68.69年熱い時代だそうで、その高校の文化祭が原点。
すぐ上の先輩方が、バーバラ・ガーソンという方が書かれた『マクバード』
(アメリカのJFKがダンカンに見立てたシェイクスピアの『マクベス』の焼き直しぽっい・・)
や福田義之さん作『袴垂れはどこだ』、別役実さん作『マッチ売りの少女』など
当時としては先鋭的な芝居をやりながらデモをやってる先輩方を見ながら
安部公房さんやピランデルロ氏の芝居をやっておられたそうです。
(ピランデルロさんといえば新国立劇場で公演された『山の巨人たち』ですね)
ピランデルロさんといえば、彼の作品集には副題が付いていて
「マスケラヌーベ」(裸の仮面)・・それは、日常を生きる私たちも
夫や会社員、演出家とかの裸の仮面を付けて生きている、演じてる=俳優。
役を演じる俳優と同じことではないかと考えで作品を書いていた方だそうです。
当時は、授業が終わった教室が稽古場となり、怪しげ(笑)な芝居をやっていたのが
日常で、要は勉強がしたくなかったそうで(笑)
勉強やら、受験勉強をしていた同じ教室内で、芝居の稽古をすることが
何か演じている自分・・世の中の相対的な目を養われたという自覚症状があらわれた
そうです(ひねくれた目(笑)ともおっしゃっていました)
鵜山さんにとって、ピランデルロの作品との出会いが強烈だったんですね。
わたしも『山の巨人たち』は、とっても刺激を受けた作品でした。

鵜山さんが東京に上京してきた70年代。
唐十郎さんの状況劇場「赤テント」や佐藤信さんの「黒テント」寺山修司さんの
「天井桟敷」などアングラや出口典雄さん主催「シェイクスピア・シアター」
新作の時代としては、つかこうへいさんの時代。
当時、文学座には見向きもしないで(笑)、これらの芝居を楽しまれていたそうです。
というのも、いままで舞台でしゃべれなかった言葉が、しゃべれるようになっていき
おおげさに云うと「言葉が開放されていく」感じを目の当たりにしていた時期だったそうです。
例えばということで、演劇原語の開放として
鵜山さんの中で大きかったと言われた、つかさんの存在。
そんな70年代半ば、皮肉にも舞台芸術学院を卒業されて文学座に入り、
演劇を生業として現場に関わるようになったそうです。

演劇の魅力とか役割ってなんだろう?ということで、現在の鵜山さんの事を話されました。
1991年に新国立劇場が出来て、芸術監督の鵜山さんとしてのお仕事は
9月から翌年の8月までのシーズン制で、年に8本位のプログラムを作るのがお仕事。
そこで2008~9年のシーズンの隠しテーマが「劇場の中のフィクション」だそうで
9月には三島由紀夫さんの『近代能楽集』、10月がピランデルロ作『山の巨人たち』
12月がコルネイユ作『舞台は夢』。
鵜山さんが良く使われる「不思議な国のアリス」に出てくるウサギ穴を例えて
いったん劇場という落とし穴(ウサギ穴)に入ってしまうと、
こちら側とは全然違う世界観が広がっていて、現実の中で通用することが意味がなくて
それは逆のことも云える・・
舞台で人が死んでも本当は、ウソであることがわかっているけど
もしかしたら現実で死を体験しても、鵜山さんにとって学生時代にピランデルロの影響を
受けていると、現実の死さえ知らず知らずに演じているのかも・・と、浮かぶそうです。
現実世界の中にフィクションが存在しているのかな?!と想像することができる・・
夢のような話ですが・・と、前置きがあって、現実に死に遭遇した時に
又別の世界に通じる楽屋とか楽屋裏とかがあったりして、死んだはずの人が
ぴんぴんしているかも・・と考えたりされるそうです。
現実とは180度違うバーチャル世界が劇場であるとおっしゃる鵜山さん。
深い言葉が多くてメモが、追いつきませんf(^_^;)

今、鵜山さんのお仕事の場は国の劇場である新国立劇場ですが
そこでやるお芝居、アート全体は国家・行政など
制度に取り込まれたテクノロジーではなくて
むしろ変化を促す・・・制度を解きほぐすアルコールみたいな、
「華やかな毒」・・お薬でありたいと思っておられるそうで、そういう既存の制度や
価値観とかどうも衝突が避けられない面があると思われると、そして
既存の制度や価値観にぶつかり合いを楽しむというか、自由な精神がないと
アートは死んでしまうと・・演劇の神様とお酒の神様が一緒!
なんか納得するお話ですね。

芝居で主人公となりうる人というのは、どちらかというと敗者、賊軍とかを
切捨てないで、官と賊とか男と女とか、昼と夜・・生と死とか
色々な対立する価値観のぶつかり合いを面白くしたたかに表現し続けるというのが
アートの得意技なんじゃないかな・・と、ただ対立してるだけじゃなくて
違う空気・・温度とかガスが浮かび上がってきて、それら遊びだのクッションになるそうで、
それが無いと、ただの対立だとすると、わたしたちが
生きていくのに息苦しくなるので、やってられない。
そういう遊びだのクッションだのが、政治とか環境だとか・・ただのアートじゃなく
言葉とか芝居とか演劇とか、いわゆるコミニュケーションの有象無象の存在意義では
ないのだろうか?!とまたスポーツも似たような役割だと思われるそうで
新しいコミュニケーション技術としてのアートを発見することが
鵜山さんにとって、芝居をやってることの楽しさなんじゃないかなと思われるそうです。

新国立劇場で公演された木下順二さん作『オットーと呼ばれた日本人』の
中の日本語の台詞を一部英語に翻訳されたのが、センター長のロジャーさんで
それが縁で、今回の講義に運びになったそうです。
で、『オットー・・』話で、共演者の紺野美沙子さんがいらしているとご紹介をされてから
この作品のなかで「あれか、これか」。
「あれか、これか」というのは、デンマークの哲学学者キルケゴールさんの日本語訳の
著書の題名だそうで、オットーの生きた時代を例えて話されます。
ゾルゲ事件を題材にした尾崎秀美さんを題材にしたお話でしたが
結果、祖国日本を裏切る羽目になった悩める主人公の心情を表した言葉でもあり
「あれか、これか」の一つを選ぶためには、「あれか。これか」の一つを捨てなくては
いけない・・という瀬戸際に立たされた立場の主人公の台詞を引用されました。
どーしても欲しいものを手に入れるためには、
どーしても欲しいものを捨てなくていけないという
「あれも、これも」という飽食な今の時代に対して、かなり醍醐味のある出来事。
そういう状態の中に身を落として変わっていくのが懐かしく感じたりしたそうです。

面白い芝居の条件・・と、いうことで
まず第一に「変化」とおっしゃいました。
アメリカの大統領選挙以来「変化、変化」とみんな言い出したけど
「僕は、もうちょっと前から言ってました」と、茶目っ気たっぷりにおっしゃいます。
ところで何を「変化」とみるか?人によって様々に違いがあっても
そもそもどこに向って変化していくのか?とか
誰が何の為に?引き起こしてゆくのか?と、なると大きな問題になる、と
良い変化とは=「より良い変化を引き起こす変化」と禅問答みたいと
おっしゃりながら、「根本的な変化を引き落とす変化」というのが
芝居だけじゃなく、日常のコミュニケーションを面白くする第一原則ではないか?
そこで70年代半ばに影響れた、つかこうへいさんが言葉を開放させていたと
話が戻り、つかさんは「ブス」という言葉を(台詞は「ブスに市民権があるか」)
初めて戦略的に舞台に乗せたそうです、
きっと、つかさんは「決まった視線からの偏りを鮮やかに批評」したのでは?!と
簡単にいうと、「体裁や見てくれだけないい子だけを見ているだけじゃ
世の中面白くないぞ」と言っていたんではないかなと、おっしゃいました。
顔一つとってみても、自分は他人とは違うと、一つ一つをとってみて
それぞれの個性を、ダイナミックに捕えるべきで
世の中とか、自分とかに変化を及ぼしていくエネルギーになるんじゃないかな?
美人とブスの対決というのは、演劇の基本力学の一つで
つかさんの前からあった、根本的に価値観のぶつかり合いということ。
演劇に変化が大事というのは、言葉を変えると
「何かを捨てること」
昨日までの自分を捨てることで、新しい自分と出会う
刻一刻と出会いと別れを繰り返して、最終的な究極の別れは「死」というもので
「死」によって、この世から自分たちが消えてしまうのだけど
一見そうはみえるのですが、その先の出会いがどう結びついているのか?!
先程のウサギ穴」のお話に戻って、死の先には、違う世界があって・・・・
永遠と繰り返されているのかな?!
最近、DNAの話とかでちゃうと、まんざら夢でもなく真剣に考えられてるそうです。

さて、ここで『父と暮せば』のラスト約10分程のビデオが上演されました。
初演のすまけいさんと梅沢昌代さんのコンビのものです。
現在は5代目。初演からずっと演出されてる鵜山さんです。
「これ観るの久しぶり(笑)」
そしてセンター長のロジャースさんは「THE FACE OF ZIZOU」と英訳され
たお方だそうです。

12/16(火) in 東京工業大学 大岡山キャンパス西9号2Fディジタル多目的ホール

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# by berurinrin | 2008-12-18 23:23 | イベント

文学座12月アトリエの会『日陰者に照る月』 in 吉祥寺シアター(12/14)

作  ユージン・オニール
訳  酒井洋子
演出 西川信廣

1923年9月のアメリカ、コネチカット州
地主のジム・ティローン(菅生隆之さん)の土地を借りて農場を営むフィル・ホーガン
加藤武さん)と娘のジョージー(富沢亜古さん)。
ジョージーには弟たちがいますが、父との折り合いが悪く家を出てしまい
今は二人きりで、ジョージーが家を切り盛りしています。
そんな中、ジムとジョージーは、互いに惹かれ合っていますが
なぜかジムは、ジョージーに対しての態度が何か欠けているようです。

吉祥寺シアターでのアトリエの会の公演もこの作品で最後です。
次回からは、本拠地アトリエに戻っての公演になります。
思えば、遠くて辛いなぁと思いながら通った吉祥寺も美味しいお店が沢山あって
お友達と楽しく過す時間に彩を与えてくれた街でした。

口汚く罵り合いながらも、フィルとジョージーの父娘は、波長が合うようで
それは互いの必要性を感じているからなのかしらん?と思っていましたが
フィルと上手く生活していく為に、強がって仮面をつけて生きてるジョージーの姿がじわじわ
浮き上がってくるのは、ジムを愛するその愛の深さと大きさに圧倒されてから・・
ジムの複雑な心の壁を、陽だまりのような温かさで溶かしてゆくジョージーの優しさ・・
このチラシの真夜中と明け方のような色使いが、
二人の清らかで魂の浄化の時間であったこと・・・・
ああ・・でも、女心としては、二人の幸せな将来を暗示したかったです。
きっと、この二人の行く道にいつか重なりあう道は、やっぱり・・・ないのでしょうね。
・・・切ない。

強くて粗暴なお父さんフィルを演じられたのは、加藤武さん。
筋肉質の体型につなぎ姿は、アメリカの開拓者のようで農夫のようで
力強く人生の荒波を生き抜いてきた逞しさが漲っておられました。
片手で腕立てされる姿にもうびっくり!!

娘・ジョージーは、富沢亜古さん。登場シーンの胸を強調された衣装を着こなす
スタイルの良さに脱帽です。
それにしても、冒頭に自らの素行の悪さを告白しなからも、いやらしさを感じないのは
後半、本来の彼女の姿が現れた時でした。
その表情の違いに、涙で潤んだ瞳の美しいこと・・
ジョージーのピュアな美しさも本当に素敵でした。
富沢さんといえば、『殿様と私』のお茶目なアンナ先生も素敵でしたね(*^_^*)

ジョージーに愛されながら・・そして愛しながらも
それ以上に自分を許すことが出来なくて、苦しむジムは、菅生隆之さん。
きっとジムがもっと若く青年であったら、ジョージーへの愛を間違いなく選ぶんだろうなあ
と、思いながらも・・年齢と共に色々なものが、背にのしかかってきて・・本来なら
我慢しながらそれを払いつつ、上手くごまかして世渡りして生きて行ければよかったのに
ジムの真面目さが、酒に溺れ自分の心を傷つけていたのでしょうか?
シラノ・ド・ベルジュラック』のド・ギッシュ伯爵以来でしたが、
別れを告げる・・菅生さんの心に響く深い声が、
こんなに悲しく伝わってきてたまりませんでした。

乗馬服に身を包み、フィルとジョージーにぼっこぼこ(笑)にされてしまうのは
岸槌隆至さん演じられるステッドマン・ハーダー。
茶髪に7・3姿は、お金持ちのボンボン然としてました。
一シーンの登場ではありましたが、かわいそうな位に、父娘にいじめられた姿は
面白すぎて・・いやいや、かわいそうでした。
岸槌さんといえば、『風のつめたき櫻かな』で、縁を切った両親が
震災にあってしまい、いたたまれず訪ねてくる太一さん。両親との再会のシーンでは
労わりあう姿が、静かで温かくぬくもりを感じる感動がありました。

フィルの息子で、ジョージーの弟マイク・ホーガンは三上秀樹さん。
フィルに反抗して、他の兄達のように家を出て行くマイク。
ジョージーと話し合うも分かり合えないまま決別していくマイク。
若々しくて自分の尺度でしかまだ理解出来ないことが多くて、
だからジョージーの本来の姿もわからなくって仕方ない・・熱い青年でした。
三上さんは、研修科二年。発表会『風のつめたき櫻かな』の役柄は
なんと、本公演で川辺久造さんが演じられた乾物屋の店主・遠藤秀作さんを演じられました。
髪を白髪にしても体系がすらっとした青年なので、視覚的にも、役柄にも難しい難問を
前向きでに役に喰らいつく姿はとても好感を持って見守っていました。

12/11(木)~12/22日(月)まで in 吉祥寺シアター

文学座12月アトリエの会『日陰者に照る月』_c0023954_1673575.jpg

画像については事前に劇団の許可を頂いています。無断転載はなさらないで下さいね★
# by berurinrin | 2008-12-17 22:46 | 文学座観劇感想